陸 喜(りく き、? - 284年)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての政治家。字は恭仲。本貫は揚州呉郡呉県。陸瑁の次男。伯父は陸遜。子は陸育。甥に陸曄・陸玩。従兄弟に陸抗など。
生涯
赤烏二年(239年)に父・陸瑁が亡くなる。
陸喜は若い時から声望と名声があり、学問を好み、そのうえ才気と思いを運らすことを得意とし、文章典籍を読みあさり、人と交際することを好んだ。
陸雲『陸府君誄』の辞にも経歴が記されており、それによると地方の長官を三年務め、教化や武功から会稽太守に任じられた。魏晋禅譲以後は武昌に駐屯し、都に戻ると侍中を務めた。
陸瑁伝や『晋書』によると、孫晧の頃には選曹尚書、吏部尚書であった。建衡元年(269年)、陸凱は亡くなる直前、国の支えとなる人物の一人として陸喜の名を挙げている。
天紀4年(280年)、呉が西晋に滅ぼされると、陸喜は在野に下った。
著作は百篇ほどあり、諸葛亮の名を借りた『西州清論』は世に伝わった。その著書の中で、「薛瑩は国士の第一人者であろうか?」という問いに「彼は四~五流の人物である」と答えている。なぜかと問われると「孫皓の無道暴虐の世において、隠棲するのが一流、富貴を求めないのが二流、国家に尽くすのが三流、時流に逆らわなのが四流、ただ保身に尽くすのが五流」と答えた。
後の太康年間に、西晋朝廷は、呉などの在野の人物で陸喜などの貞潔で忠義あふれる人材を褒め称え、各部門の長官に礼をもってこれらの人物を官に授けるように命じて、ようやく官に任用する事ができるようになった。
これにより陸喜は西晋で散騎常侍に任命されたが、ほどなく太康5年(284年)4月に逝去した。
ある時、吾彦が武帝・司馬炎から陸抗・陸喜の人物について尋ねられたところ、「徳や名望では陸抗は陸喜に及びません。しかし、功績を立て賞賛されることでは、陸喜が陸抗に及びません」と評価した。
家系図
参考文献
- 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
- 『晋書』巻54 陸喜伝 及 巻77 陸曄伝
脚注




